齋藤伯耆守並びに白鳥家関連資料
 
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天正最上軍記

天正最上軍記実録
 
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語り継ぎたい醍醐のとんと昔

『語り継ぎたい醍醐のとんと昔』,醍醐地区景観まちづくり協議会,寒河江市西部地区公民館日和田分館,平成22年3月

「日和田の殿様」

日和田地区につたわる、日和田の殿様・日和田五郎の話。

日和田五郎はたいへんおだやかでやさしい殿様だった。
白鳥十郎に攻められたとき、地区民への被害を恐れ、戦わずして降伏した。
そのため、誰もケガもしないし、犠牲になった人もいなかった。

などなどが語られている。

お墓の位置も現在のところではないところにあったらしい。

その他、日和田の市神のことなども載っている。
2015.11.23
 

『資料 山辺町の石仏と石碑』

『資料 山辺町の石仏と石碑』
山辺町史料集 第3集 山辺町史編纂委員会
2003年3月

第5節 相模地区 (根際地区) 72頁

十四 白山神社境内

白山神社は大同二年、神主の斎藤家の先祖藤原剛久が加賀白山の神霊を捧持して、山上に庵を建立し白山寺と称して祀ったのが始まりで、山野辺義忠の祈願所として武運長久の柴燈護摩祈祷(さいとうごまきとう)を行ったという。根際村の村社。

小鶴庄川西三十三所第二十三番の霊場である。



ーーーー
この資料によると、山辺町根際地区の石碑に「斎藤」と刻まれているものがある。他の地区の石碑に斎藤と刻まれているものはないようだ。

西里根際の齋藤家から山野辺義忠に使えた人がいるという伝承から、西里根際齋藤家と山辺根際斎藤家につながりがあるのかと期待したが、この記述から判断するに、残念ながら関係がないようだ。
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2015.4.13

 

「谷地城主白鳥長久公(3)」

伊藤憲光,「谷地城主白鳥長久公(3)」,月刊やまがた 昭和56年9月号・10月号,山形県通信社

谷地南町の誓願寺は、白鳥家の筆頭家老「伊藤将監重村」が開祖。
重村は白鳥家滅亡後出家して隠遁し、誓願寺を建て、密かに主家と部下の霊を慰めた。

平成27年2月17日
 

「河北町岩木阿弥陀堂について」

熊谷宣昭「河北町岩木阿弥陀堂について」,西村山の歴史と文化4,平成14年10月,西村山地域史研究会

筆者が聞いた、
白鳥十郎の奥方「お台(おたえ)殿と娘の「布姫」が谷地を逃れるときの四ッ塚伝説。
岩木の阿弥陀堂のご神体はおたえ殿からもらったもの、
という伝説が紹介されている。
 

伊達政宗書状

伊達政宗書状
天正十二年六月十二日
   

熊以使者ヲ申シ述候、仍今度於其元ニ、

白鳥並ニ氏家生害之由内々
御心もとなく在候て、吏二鉄砲成共指添、
可進条処ニ無菟各、とり静られ候由
承候条、無其儀候 事新敷申候事ニ候へ共、
小斎之地ニ令連馬候石切ニも、
数度被乃
合カニ候キ、于今わすれかたく存斗二候又者、
天童ニ手をふさかれ候折節、内々
自是も可及加勢ニ存候ヘ共、未拙子代ニハ
無之候間、乍存令延引候、乍去只今之事者、
御用ニ候者、不断者共にても、
さしニし申へく候間、年来骨肉之事と云、
於此度も、無御隔意可承候、恐々謹言
六月十二日 政宗(花押)

山形殿
 追而
如此之儀
 とくニも可申候ヘ共、
□□定之間
 令遅々候、以上

兵庫県立博物館所蔵 最上義光歴史館の複製を書き取り、デジタル化した。