齋藤伯耆守並びに白鳥家関連資料
 
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天正最上軍記

天正最上軍記実録
 
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『資料 山辺町の石仏と石碑』

『資料 山辺町の石仏と石碑』
山辺町史料集 第3集 山辺町史編纂委員会
2003年3月

第5節 相模地区 (根際地区) 72頁

十四 白山神社境内

白山神社は大同二年、神主の斎藤家の先祖藤原剛久が加賀白山の神霊を捧持して、山上に庵を建立し白山寺と称して祀ったのが始まりで、山野辺義忠の祈願所として武運長久の柴燈護摩祈祷(さいとうごまきとう)を行ったという。根際村の村社。

小鶴庄川西三十三所第二十三番の霊場である。



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この資料によると、山辺町根際地区の石碑に「斎藤」と刻まれているものがある。他の地区の石碑に斎藤と刻まれているものはないようだ。

西里根際の齋藤家から山野辺義忠に使えた人がいるという伝承から、西里根際齋藤家と山辺根際斎藤家につながりがあるのかと期待したが、この記述から判断するに、残念ながら関係がないようだ。
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2015.4.13

 

「谷地町に於ける姓氏」

 堀籠一眞、「谷地町に於ける姓氏」、谷地町教育会、谷地町郷土研究叢書第一輯、昭和11年10月

30ページに「齋藤氏」についての記載あり。
「谷地の齋藤氏は元、白鳥長久の同族と言はれる」
「白鳥家滅亡後、此の一門は最上氏に對する自警上、母方の齋藤名乗ったと見られる・・・」
「・・谷地城落城の際齋藤伯耆、同市郎右衛門の兄弟(實は長久の弟)・・・」
「根際の同氏は伯耆の子孫と言はれ、宗家は累代長右衛門を稱してこの地に栄え・・・」

等の記載あり。

特に注目したいのが、
「尚此の齋藤氏に就いては信據される系圖類も現存して詳述したいが・・・」
此の系図は現在どこにあるのか、はっきりしていない。

他にも、大森家・宇佐美家など、白鳥、齋藤の関係する一族の紹介の記載もある。
 

『幕末水戸藩士の眠る丘』

神永敏子,『幕末水戸藩士の眠る丘』,風濤社,1997年11月

水戸藩家老の山野邊氏は最上義光の四男、義忠を祖とします。
幕末、水戸藩、徳川斉明は外国船の来襲に備えるため、家老の山野邊氏を城主として助川に海防城を築きました。

築城以来28年間は平穏に続いていた海防城ですが、1864年の甲子の乱に巻き込まれて消失、城を死守しようとした家臣も犠牲になりました。

東松山薬師面墓地に犠牲者の墓があります。

『幕末水戸藩士の眠る丘』はその墓碑の調査記録です。

『幕末水戸藩士の眠る丘』によると、その中にある「齋藤六郎左衛門久政」の墓碑に「白鳥十郎蔵人長久」「伯耆守」という文字と、谷地城の略歴が刻まれているそうです。
 

山辺兵庫頭家来「斉藤母来(もりき)」

『河北町の歴史散歩』浅黄三治 
17,三社宮と大銀杏(谷地城のなごりか)
P48
安永四年、山辺兵庫頭家来「斉藤母来(もりき)」の求めに応じ、工藤弥次右衛門が交付した資料とはそもそもなんであったのであろうか。

という、文が突然出てくる。
 

『天下の副将軍』

長山靖生『天下の副将軍』,新潮選書,2008年5月

水戸藩に使えた山野辺義忠や、義忠に仕えたという伝承のある伯耆守についての記載を探したが、見つからなかった。

しかし、参勤交代がなく藩主は江戸に住まうことになっていた、など水戸藩の藩の特徴がわかった。
齋藤母来の使いが江戸から来たという伝承の裏付けになる。
 

『山形市史 史料編 最上氏関係資料』

『山形市史 史料編 最上氏関係資料』

・分限帳や文章についての解釈
・「谷地隠居 二百十四万石」という記載 最上源五郎様御時代御家中并寺社方在町分限帳
・吉祥院文書 齋藤一郎右衛門 という人名あり
 

『河北町の歴史散歩』

浅黄三治、「河北町の歴史散歩」、昭和63年9月

「三社宮と大銀杏」 47~49ページ

白鳥十郎の遺族という青森県の白鳥大八氏の来町。「出羽の山形でだまし討にあい、青森まで落ち延びてきた、という伝承。

「安永四年、山辺兵庫頭家来「斉藤母来(もりき)」の求めに応じ、工藤弥次郎右衛門が交付した資料とは、そもそもなんだったのであろうか」

天正最上軍記に記載されている、白鳥氏家臣団の紹介

「津軽藩主の先祖に、白鳥十郎の娘が側室に入っているという菩提寺の記録が発見されたという話があり、」

などという、白鳥家滅亡後の十郎の子孫の動向について、興味深い記載がある。


「弥勒寺公園「幸之神社」」96〜98ページ

縁結びの神として信仰を集めた幸之神社は、かつて中条家や白鳥家の尊崇をうけていた。

『根際の普流稲荷神社』145〜146ページ

根際齋藤家の氏神とされる普流稲荷は、かつて谷地城守護神であったものを遷座したものという記載あり。


他に、白鳥十郎に関する記載、谷地城に関する記載、東林寺の本尊が秘仏であることなどの記載がある。
 

『出羽百観音』

 最上三十三観音の始まりは、山形の祖である斯波兼頼より5代目の最上頼宗の一人娘・光姫伝説に由来します。光姫は、十八才で京都の右衛門佐頼を婿養子に迎えて結婚。しかし、姫の美しさに魅せられ恋慕う者は多く、最上鮭川の横川大膳国景は、姫を略奪しようとして処刑されてしまいます。この時より大膳の亡霊に苦しめられた姫は、ついに出家を決心。乳人の信夫とその姉・安養尼を連れ立って観音巡礼へと旅立ちます。途中、老婆に姿を変えた観音様に出会い、若松から庭月までの道を教わるなどして無事結願し、姫は心身ともに正常な姿へと生き返りました。やがて姫の観音巡礼は世間に広まり、最上の観音信仰が高まったと言われています。
 なお、現在の順番が定着したのは、江戸時代中期で、最上川の流れに沿うように三十三観音霊場が点在しています。

後藤博、「最上三十三観音ガイド」、『出羽百観音』、みちのく書房、一九九六、四八〜四九頁

 寺伝によれば、奈良時代の僧・行基が天平九年(七三七)この地を訪れ、聖観世音・阿弥陀・薬師の三体を彫り、厳上のお堂に安置、熊野権現にならって厳上三所権現と称したと伝えられている。これが寺の始まりで、別当の厳下寺も同時に建立されたが、寛文年間(一六六一〜一六七二)に火災でお堂が消失し、別当の勝覚が享和二年(一八〇二)、今のお堂を再建している。(48〜49ページ)

後藤博、「小松澤観音」、『出羽百観音』、みちのく書房、一九九六、七頁

ともに河北中央図書館
 

『上山市史 上巻』

『上山市史 上巻』,柏倉亮吉監修,上山市,昭和55年3月

栗川稲荷の歴史と根際の普流稲荷とのつながり調査
栗川稲荷について調べるために目を通したが、特に記載なし。

「第5編 中世の上山」に最上川西部の征服という項があり、白鳥十郎の殺害についてに記載あり。
 

『山形縣神社誌』

『山形縣神社誌』,山形県神社庁,平成12年4月

白鳥十郎が関係した神社の記載あり。
谷地八幡宮
月山神社
皇太神社
稲荷神社

家臣が関係したもの
羽黒神社
八幡神社

他に齋藤家の氏神とされる普流稲荷との関連がある可能性のある
栗川稲荷
も記載されているが、普流稲荷との関連は見つけられなかった。