齋藤伯耆守並びに白鳥家関連資料
 
項目 > 資料> 白鳥十郎長久 

Google検索


 

図書館検索サイト

天正最上軍記

天正最上軍記実録
 
このサイトは紅玉ネットが管理しています。
 

紅玉ネット



http://www.kougyoku.net
 

伊達政宗書状

伊達政宗書状
天正十二年六月十二日
   

熊以使者ヲ申シ述候、仍今度於其元ニ、

白鳥並ニ氏家生害之由内々
御心もとなく在候て、吏二鉄砲成共指添、
可進条処ニ無菟各、とり静られ候由
承候条、無其儀候 事新敷申候事ニ候へ共、
小斎之地ニ令連馬候石切ニも、
数度被乃
合カニ候キ、于今わすれかたく存斗二候又者、
天童ニ手をふさかれ候折節、内々
自是も可及加勢ニ存候ヘ共、未拙子代ニハ
無之候間、乍存令延引候、乍去只今之事者、
御用ニ候者、不断者共にても、
さしニし申へく候間、年来骨肉之事と云、
於此度も、無御隔意可承候、恐々謹言
六月十二日 政宗(花押)

山形殿
 追而
如此之儀
 とくニも可申候ヘ共、
□□定之間
 令遅々候、以上

兵庫県立博物館所蔵 最上義光歴史館の複製を書き取り、デジタル化した。
 

山形県史 第1巻 第十三章「戦国の争乱」

山形県史 第1巻
第十三章「戦国の争乱」

721ページから

天文の乱と最上

伊達領内で、領国制の強制に不満を持つ豪族地頭らの反抗根底とし、いわゆる「天文の乱」がおこった。天文十一年六月。伊達稙宗と長男、晴宗との争いが激化。
近郊諸侯も巻き込んだ奥羽の大乱となる。

伊達稙宗は開戦早々小田島荘の白鳥氏に書状を送り最上義守の援助を要請した。

「書状は一関市田村氏所蔵」
謹上 白鳥殿 という記載有り

「白鳥氏は小田島荘白鳥郷の館主であったが、その出自は諸説あって判然としないしない。おそらく白鳥郷の「村落の主」として成長した国人であったと思われるが、もう天文の頃には伊達稙宗と懇意の関係にあり、稙宗から「謹上 白鳥殿」と宛書するほど台頭しており、最上の政界に重きをなしており、最上義守の動向にも大きな影響力を持っていたことがわかるのである。
 天文十一年十月最上義守は養母の兄伊達稙宗を助ける名目で出馬した(留守文書)」



731ページから
「川西地域の領国化」

 「最上の領国体制にも脆弱性は残在し、とくに川西地域が危なかった。この地方の武将は一応最上氏の傘下に入っているとはいえ、相当根強い自主性を持っており、義光にも叛服をくりかえしていた。とくに不気味な存在は白鳥長久だった。小田島荘白鳥郷の国人だった白鳥氏は以前から強大な豪族にのし上がり、永禄・元亀の頃には谷地城主となり、長久にいたるや義光と競い合うほどになった。
天正五年には槇清光を上洛させ信長に名馬を献じたと伝えられる。長久にだし抜かれた義光は心中穏やかならず、直ちに志村九郎兵衛を上洛させ信長に贈物したという。天正九年五月にも長久は伊達の重臣遠藤基信に書状を送り、上洛せんとしていた大崎義隆の置たま通過の便宜を求めている(性山公治家記録)。その態度は独立した大名の観があった。ここに義光は白鳥討伐を断行するにいたったが、宿老氏家守棟の建議により長久の養女を義光の長男義康に娶ることにして一時和解したという。「義光物語」別本にこの時最上方から送られたという書状が残っている。これによると差出人は「出羽守内 氏家尾張」、宛名は「谷地郡司 白鳥十郎殿」とある。そのままは信ぜられないが、対等の和解ではなかったろう。これでは白鳥氏は承服できず、両者の不和は依然つづいた。ついに義光は病と偽り長久を山形城内に招致して謀殺したという。白鳥討伐についての根本資料が無く、谷地落城後は森伯耆が在城したというが、これも判然としない。「最上義光分限帳」では谷地城に四千石知行の斎藤伊予守がいたが、最上氏末期には斎藤伊予は高だま城主であった。一時的な城番だったのだろう。「義光物語」等でも谷地衆で義光方に寝返ったものは記されていない。分限帳等をみても谷地衆で最上家家臣団にくみこまれたと思われる者は見出せない。「最上義光分限帳」では谷地三万二千六百石は蔵入地となっていた。白鳥氏は義光の軍勢によって徹底的に討滅し尽くされたのであろう。」
 

羽州葉山山麓 にしかた物語

羽州葉山山麓
にしかた物語

熊谷宣昭 1800円 0237ー54ー2310
平成10年8月1日

P28
宝暦年間の御領内新古改高村鑑の駒居村の項に「城跡あり鬼甲(胃のような字)という白鳥十郎築立の城也といふ。」とある。鬼甲城は、白鳥氏の城であることを語っているように思える。

P36
白鳥氏の苦悩
 中世領主となるには、単に武力だけではなく、後世の最上義光時代に、白鳥十郎が織田信長に鷹と馬を献上して、出羽探題の系図を示したように中央との結びつきが必要であった。奥州藤原氏の庄司・保司であった陸中胆沢郡白鳥郷の阿部家の血を引く白鳥郷の、出羽南朝の忠臣白鳥冠者義久が寒河江小四郎とともに活躍しているのも、吉野朝廷との結びつきを求めてのことだったのだろうとおもう。また、羽黒・慈恩寺・葉山修験者たちと一緒に、京都や吉野へ出向き南北朝の動向の情報収集に往復したのだろう。
 この時代の南朝武士は、領地が定まらず神出鬼没の戦いをしていたと思われる。白鳥宮下楯の柏木森・鳥谷森・毛倉森はそまつな城で、楯城とも言えない森であったのである。これらの城は一時的な隠れ城だったと思われる。谷地進出以前の白鳥氏の楯を岩野白石山の松尾明神を祭る日本武尊の白鳥伝説に結びつけたり(角川日本地名大辞典山形県)、白岩系図に阿部氏の系図にしたりしているのも、領地の定まらない白鳥氏の困惑する姿だろう。中央政府との結び付きを必死に追い求める地方武士の苦悩が見られる。南北朝動乱期に生きる地方武士の世相を語るものであろう。
 戦国時代、北寒河江荘円覚寺五ヶ郷に隣接した北方の湯野沢郷には、鎌倉地頭平朝臣友康を祖にもつ熊野三郎が、その南方には、寒河江大江氏がいる。白鳥十郎は、こうした鎌倉以来の御家人領主と結びつくことに必死であったろう。このことが、白鳥系図を混乱させた理由であろう。


白鳥長久の妻
白鳥十郎は湯野沢楯主熊野三郎の娘おたえの君を娶ることで、熊野三郎を家臣にしたと伝える。河北町谷地に進出の過程を語るものである。

白鳥長久妻のことを、渋井太室著「国史」の最上伊達伝第二十一に、
引用中略

 北山高盛山頂上に尼御前の墓がある。嫁いじめする夫は、この尼に殺されると伝える。その伝えに、「熊野三郎平長盛の兄は大崎にいたそうだ。また、いつ頃の熊野三郎の子供だか分からないが、子供の長男は戦死して、三男熊野三郎の姉は白鳥に嫁さ行って、夫はええ男だが悪者で、嫁いじめがひどくて、苦労し、でもどりして家さ帰ってくる時、北山で行き倒れて死んだけど、夫は山形の殿様に殺された。妹は白岩の殿様さ嫁に行って幸せだったそうだ。」という話がある。北山高盛頂上にその尼御前の墓がある。前述の国史にいう義光の「姉ノ夫白鳥ニ居ル」というのは、伝えにいう熊野三郎の姉であったのではなかろうか。
 

北口市について

谷地町郷土研究行書2
谷地町に於ける市の変遷 今田信一

5P
 第2章 

 第1節 二六市
  起源は明確ではないが伝説的には四つある。
  1,白鳥十郎長久公が、天正年間に、白鳥村から当(旧字)邑へ移るとき、吉田村にあった市を北口に移転した。
  
  この伝説を裏付ける資料は一切ない。
  
  下郷白鳥から出てきた十郎が、山野菜や薪炭を供給する下郷衆のために、北口を開放したといふ事は有り得べき事である。
  
  取るに足らぬ地元起原の伝説であるが、次のようなものがある。
  白鳥十郎が山形城主最上義光のために誘殺されたあと、十郎の奥方は、北口の市日毎に、袈裟を被って、裏門から買い物に出るを例とした。それで、内楯城の裏通りをカツキザワという。
  
  
結論
之を要するに、北口二六市は、白鳥十郎来谷当時、町民生活のため、また城下の繁栄策の一助として設けられ、下郷衆の物産を町民に供給させたが、江戸時代に入って、最上川運輸の進につれ、下郷衆の生活必需品を供給することが多くなり、需給の関係?る旺盛なる市場として発展し、吉田の市権利の買収によって、益々商権を広めたものであらう。
 

寒河江市史 上巻

寒河江市史 上巻
 763ページ 谷地白鳥氏の誘殺

764ページ
「一関市田村家に残る「伊達稙宗書状」によれば・・書状の写し・・と稙宗が白鳥に義守の援助を依頼するなど、両者は懇意の関係にあった。しかも宛名が「謹上 白鳥殿」とあり、最上の諸将の中にあって、すでに一目置かれる存在であったことが分かる。この白鳥氏は谷地入部以前であり「白鳥系図」に照らして長久の父義久かと思われる。」




信長との関係の記載。山形県史と同じ内容

「こうした白鳥氏の存在は、義光にとって我慢のならない姿に映ったに違いない。ついに義光は白鳥討伐を断行する事にした。白鳥・最上両者の戦いがどのように展開したか、残念ながら根本資料はない。いわゆる「軍記物語」に頼らざるを得ない。たとえば、「最上記」の「城取十郎討捕給事」、「奥羽永慶軍記」の「白鳥十郎被討(うたれる)事」「谷地寒河江城之ノ落城ノ事」、「羽陽軍記」の「城取十郎討取事」、「羽源記」の「城取十郎捕謀略之事」のごときものである。
 これらは、いずれも近世において、聞き書きよって作られたものであり、それなりの限界があるが、経過を辿れば次のようになる。

 ・・伝承の通り・・

省略

白鳥氏を討った義光は、自ら三千余の軍勢を引き連れ谷地城を目指した。「足軽・鉄砲三百人・長柄三百人」など、その陣容を「奥羽永慶軍記」は記している。多分、激しい攻防の結果、短日の内に谷地城は落ちたものと思われる。

森伯耆や斎藤伊予の事
省略

谷地領の多くは義光の直轄地に組み入れられ、それに伴って白鳥氏家臣の多くは帰農したものと考えられる。
 ただ、義光は敗れた者に寛大な一面を持っていたとされるから、降伏した者の中には義光の家臣となった者もいたに違いない。

 河北町西里の岡田宇七家には、天正十五年(1587年)二月二十八日付けの「最上義光充行(あておこない)状」があり、境介次郎に「にしさとのうち六百苅之処」を充行っている。また、同所青木惣兵衛家にも、天正十七年(1589年)二月二十日に、谷地小僧丸から青木孫(兵衛か)に宛てた「預置状」がある。谷地小僧丸はその小黒印から見て最上義光であり、「木の下在家御年貢三貫文、もみ八斗出候所」を預置くという内容である。預置状は中世では一般に、直轄領を家臣に託して管理させるときに出す場合が多い。
 これら境介次郎や青木孫兵衛(カ)らは、かつての白鳥氏の家臣から最上家家臣となった者の一例であろう。


786ページ
東海林隼人佐(しょうじはやとのすけ)と最上氏への抵抗

十郎の娘、日吉姫の伝説


十郎には息女はいないので伝説であろうが、単に物語として片づけられないな内容がある。
 

『河北町の文化財』

山形県河北町、『河北町の文化財』、河北町教育委員会、平成16年11月

河北町の文化財を写真入りで紹介した本。
実物を直接目にすることは困難だが、この本によってどのようなものなのかを知ることができる。
白鳥氏関連では、
「慈眼寺古文書」    白鳥氏が河北町を支配する以前、この地を治めていた中条氏に関する文書
「青木家古文書 青木某宛谷地小僧丸安堵状」    白鳥氏亡き後、最上義光による所領安堵状
「岡田家古文書 小僧丸除地安堵状」    白鳥氏亡き後、最上義光による安堵状
「工藤弥次右衛門手控」    谷地城の規模が記載されている
「槇久右衛門家文書」    谷地町の旧図のほか、織田信長が白鳥十郎に宛てた書状(天下布武の朱印いり)など
「市神」    白鳥十郎が開いたとされる北口市などの紹介

いずれも町指定有形文化財

が載っている。
 

山形市市 中巻

山形市市 中巻
21ページ

血染めの桜

内容は山形県史とおなじ。
分限帳の事なども記載。
 

伊達政宗書状

伊達政宗書状
天正十二年六月十二日
   

熊以使者ヲ申シ述候、仍今度於其元ニ、

白鳥並ニ氏家生害之由内々
御心もとなく在候て、吏二鉄砲成共指添、
可進条処ニ無菟各、とり静られ候由
承候条、無其儀候 事新敷申候事ニ候へ共、
小斎之地ニ令連馬候石切ニも、
数度被乃
合カニ候キ、于今わすれかたく存斗二候又者、
天童ニ手をふさかれ候折節、内々
自是も可及加勢ニ存候ヘ共、未拙子代ニハ
無之候間、乍存令延引候、乍去只今之事者、
御用ニ候者、不断者共にても、
さしニし申へく候間、年来骨肉之事と云、
於此度も、無御隔意可承候、恐々謹言
六月十二日 政宗(花押)

山形殿
 追而
如此之儀
 とくニも可申候ヘ共、
□□定之間
 令遅々候、以上

兵庫県立博物館所蔵 最上義光歴史館の複製を書き取り、デジタル化した。
 

「新しく発見された白鳥長久書状」

鈴木勲「新しく発見された白鳥長久書状」,山形県地域史研究38,山形県地域史研究協議会,平成25年2月

白石市教育委員会寄託遠藤家文書の中に2点、白鳥長久関連の資料があることがわかった。
 

「新出の最上義光書状について」

武田喜八郎「新出の最上義光書状について」,山形県地域史研究第20号,平成7年7月

最上義光が白鳥十郎に宛てた書状の可能性
 

「檀那首考

菅藤貞次郎「檀那首考」,山形県地域史研究第20号,平成7年7月

大石田町次年子には白鳥十郎の首を埋めたと伝わる檀那首というところがある。
 

「一山寺院としての葉山信仰」

月光善弘「一山寺院としての葉山信仰」,山形女子短期大学紀要第14,

「修験道の普及とともに、南北朝、戦国時代を通して、白鳥氏、最上氏らとつながる行者たちの拠点となった。」

寒河江図書館
 

「慈恩寺と西里に関する一考察」

鈴木勲「慈恩寺と西里に関する一考察」,西村山地域史の研究第30号,2012年

最上義光の安堵状が現存する青木家文書の「木下在家」についての記載あり。
 

『山形縣神社誌』

『山形縣神社誌』,山形県神社庁,平成12年4月

白鳥十郎が関係した神社の記載あり。
谷地八幡宮
月山神社
皇太神社
稲荷神社

家臣が関係したもの
羽黒神社
八幡神社

他に
栗川稲荷
天満神社のコピー
 

「貫見館主松田彦次郎とその系統」

松田進「貫見館主松田彦次郎とその系統」,西村山の歴史と文化4,平成14年10月,西村山地域史研究会

家系図に「妻ハ谷地城主白鳥十郎長久家臣曽根田式部女」という記載あり。
 

「河北町岩木阿弥陀堂について」

熊谷宣昭「河北町岩木阿弥陀堂について」,西村山の歴史と文化4,平成14年10月,西村山地域史研究会

筆者が聞いた、
白鳥十郎の奥方「お台(おたえ)殿と娘の「布姫」が谷地を逃れるときの四ッ塚伝説。
岩木の阿弥陀堂のご神体はおたえ殿からもらったもの、
という伝説が紹介されている。
 

「八聖山の奥羽鉱山檀廻について」

宇井啓「八聖山の奥羽鉱山檀廻について」,西村山の歴史と文化4,平成14年10月,西村山地域史研究会

八聖山の白鳥十郎の子供の伝承
 

『寒河江大江氏』

阿部酉喜夫『寒河江大江氏』,大江公入部八百年祭記念事業実行委員会,昭和63年12月


白鳥十郎長久山形城誘殺
P118
「実際は山形城に着くやいなや待ち構えた最上の家臣団によって斬殺されたものと考えたほうが理にかなっている。」
 

「湯野沢城楯とその周辺」

熊谷宣昭,「湯野沢城楯とその周辺」,西村山の歴史と文化3,平成8年11月

白鳥十郎の家臣、熊野三郎館城についての記載あり。
 

『出羽の国・寒河江の歴史 地名を歩く』

宇井 啓『出羽の国・寒河江の歴史 地名を歩く』,寒河江市広報室,1992年3月

寒河江市内の地名を紹介した本。
寒河江川の旧河道に関する伝承の他、
    白鳥十郎の娘「日吉姫」に関する情報(笈合・おいあわせ)
    白鳥十郎に攻め落とされた楯の伝承(楯越)
    大江氏の防衛線(入倉)

が載っている。