羽州葉山山麓 にしかた物語

熊谷宣昭,平成10年8月1日

P28
宝暦年間の御領内新古改高村鑑の駒居村の項に「城跡あり鬼甲(胃のような字)という白鳥十郎築立の城也といふ。」とある。鬼甲城は、白鳥氏の城であることを語っているように思える。


P36
白鳥氏の苦悩
 中世領主となるには、単に武力だけではなく、後世の最上義光時代に、白鳥十郎が織田信長に鷹と馬を献上して、出羽探題の系図を示したように中央との結び つきが必要であった。奥州藤原氏の庄司・保司であった陸中胆沢郡白鳥郷の阿部家の血を引く白鳥郷の、出羽南朝の忠臣白鳥冠者義久が寒河江小四郎とともに活 躍しているのも、吉野朝廷との結びつきを求めてのことだったのだろうとおもう。また、羽黒・慈恩寺・葉山修験者たちと一緒に、京都や吉野へ出向き南北朝の 動向の情報収集に往復したのだろう。
 この時代の南朝武士は、領地が定まらず神出鬼没の戦いをしていたと思われる。白鳥宮下楯の柏木森・鳥谷森・毛倉森はそまつな城で、楯城とも言えない森で あったのである。これらの城は一時的な隠れ城だったと思われる。谷地進出以前の白鳥氏の楯を岩野白石山の松尾明神を祭る日本武尊の白鳥伝説に結びつけたり (角川日本地名大辞典山形県)、白岩系図に阿部氏の系図にしたりしているのも、領地の定まらない白鳥氏の困惑する姿だろう。中央政府との結び付きを必死に 追い求める地方武士の苦悩が見られる。南北朝動乱期に生きる地方武士の世相を語るものであろう。
 戦国時代、北寒河江荘円覚寺五ヶ郷に隣接した北方の湯野沢郷には、鎌倉地頭平朝臣友康を祖にもつ熊野三郎が、その南方には、寒河江大江氏がいる。白鳥十 郎は、こうした鎌倉以来の御家人領主と結びつくことに必死であったろう。このことが、白鳥系図を混乱させた理由であろう。



白鳥長久の妻
白鳥十郎は湯野沢楯主熊野三郎の娘おたえの君を娶ることで、熊野三郎を家臣にしたと伝える。河北町谷地に進出の過程を語るものである。


白鳥長久妻のことを、渋井太室著「国史」の最上伊達伝第二十一に、
引用中略


 北山高盛山頂上に尼御前の墓がある。嫁いじめする夫は、この尼に殺されると伝える。その伝えに、「熊野三郎平長盛の兄は大崎にいたそうだ。また、いつ頃 の熊野三郎の子供だか分からないが、子供の長男は戦死して、三男熊野三郎の姉は白鳥に嫁さ行って、夫はええ男だが悪者で、嫁いじめがひどくて、苦労し、で もどりして家さ帰ってくる時、北山で行き倒れて死んだけど、夫は山形の殿様に殺された。妹は白岩の殿様さ嫁に行って幸せだったそうだ。」という話がある。 北山高盛頂上にその尼御前の墓がある。前述の国史にいう義光の「姉ノ夫白鳥ニ居ル」というのは、伝えにいう熊野三郎の姉であったのではなかろうか。



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