最上三十三観音の始まりは、山形の祖である斯波兼頼より5代目の最上頼宗の一人娘・光姫伝説に由来します。光姫は、十八才で京都の右衛門佐頼を婿養子に 迎えて結婚。しかし、姫の美しさに魅せられ恋慕う者は多く、最上鮭川の横川大膳国景は、姫を略奪しようとして処刑されてしまいます。この時より大膳の亡霊 に苦しめられた姫は、ついに出家を決心。乳人の信夫とその姉・安養尼を連れ立って観音巡礼へと旅立ちます。途中、老婆に姿を変えた観音様に出会い、若松か ら庭月までの道を教わるなどして無事結願し、姫は心身ともに正常な姿へと生き返りました。やがて姫の観音巡礼は世間に広まり、最上の観音信仰が高まったと 言われています。
なお、現在の順番が定着したのは、江戸時代中期で、最上川の流れに沿うように三十三観音霊場が点在しています。
寺伝によれば、奈良時代の僧・行基が天平九年(七三七)この地を訪れ、聖観世音・阿弥陀・薬師の三体を彫り、厳上のお堂に安置、熊野権現にならっ
て厳上
三所権現と称したと伝えられている。これが寺の始まりで、別当の厳下寺も同時に建立されたが、寛文年間(一六六一?一六七二)に火災でお堂が消失し、別当
の勝覚が享和二年(一八〇二)、今のお堂を再建している。(48?49ページ)