寒河江市史 上巻
763ページ 谷地白鳥氏の誘殺
764ページ
「一関市田村家に残る「伊達稙宗書状」によれば・・書状の写し・・と稙宗が白鳥に義守の援助を依頼するなど、両者は懇意の関係にあった。しかも宛名が「謹
上 白鳥殿」とあり、最上の諸将の中にあって、すでに一目置かれる存在であったことが分かる。この白鳥氏は谷地入部以前であり「白鳥系図」に照らして長久
の父義久かと思われる。」
信長との関係の記載。山形県史と同じ内容
「こうした白鳥氏の存在は、義光にとって我慢のならない姿に映ったに違いない。ついに義光は白鳥討伐を断行する事にした。白鳥・最上両者の戦いがどのよう
に展開したか、残念ながら根本資料はない。いわゆる「軍記物語」に頼らざるを得ない。たとえば、「最上記」の「城取十郎討捕給事」、「奥羽永慶軍記」の
「白鳥十郎被討(うたれる)事」「谷地寒河江城之ノ落城ノ事」、「羽陽軍記」の「城取十郎討取事」、「羽源記」の「城取十郎捕謀略之事」のごときものであ
る。
これらは、いずれも近世において、聞き書きよって作られたものであり、それなりの限界があるが、経過を辿れば次のようになる。
・・伝承の通り・・
省略
白鳥氏を討った義光は、自ら三千余の軍勢を引き連れ谷地城を目指した。「足軽・鉄砲三百人・長柄三百人」など、その陣容を「奥羽永慶軍記」は記している。
多分、激しい攻防の結果、短日の内に谷地城は落ちたものと思われる。
森伯耆や斎藤伊予の事
省略
谷地領の多くは義光の直轄地に組み入れられ、それに伴って白鳥氏家臣の多くは帰農したものと考えられる。
ただ、義光は敗れた者に寛大な一面を持っていたとされるから、降伏した者の中には義光の家臣となった者もいたに違いない。
河北町西里の岡田宇七家には、天正十五年(1587年)二月二十八日付けの「最上義光充行(あておこない)状」があり、境介次郎に「にしさとのうち六百
苅之処」を充行っている。また、同所青木惣兵衛家にも、天正十七年(1589年)二月二十日に、谷地小僧丸から青木孫(兵衛か)に宛てた「預置状」があ
る。谷地小僧丸はその小黒印から見て最上義光であり、「木の下在家御年貢三貫文、もみ八斗出候所」を預置くという内容である。預置状は中世では一般に、直
轄領を家臣に託して管理させるときに出す場合が多い。
これら境介次郎や青木孫兵衛(カ)らは、かつての白鳥氏の家臣から最上家家臣となった者の一例であろう。
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東海林隼人佐(しょうじはやとのすけ)と最上氏への抵抗
十郎の娘、日吉姫の伝説
十郎には息女はいないので伝説であろうが、単に物語として片づけられないな内容がある。