村山市史 原始・古代・中世
P409
谷地の中條氏とも、同じ北朝側の立場から(注 最上氏は南北朝時代に北朝についた。なお、寒河江の大江氏は南朝)、協力関係にあったろう。南
朝側の南寒河江荘の大江(寒河江)氏も北朝に降ってからは最上氏に協力するようになったらしい。
P410
最上氏系図について深く探求された後藤(壽だが、下が加)一氏は、兼頼より数えて最上義光を十一代としている流布本「最上氏系図」の外にも、
各種の系図等があることを挙げられている。
注 最上家内での当主の派閥争いがあったのではないかと推測なされている(「山形市史」上巻) 。
系図等の類は史料的価値は低いがこのように異同がはっきりしているものは簡単に捨てさって顧みることがないのも不当だろう。
土海在家(どがざけ)
第二節 戦国時代の村山地方
最上氏の北進
P422
「羽陽仙北語伝」等によると、最上義定時代の村山郡北部(現在の最北地区とくに新庄盆地)への進出がにぎにぎしく書かれている。これらは後世の記録で、物
語風に記されており、年号の如きも全然誤っている。義定の北進を永享九年としているが、当時家定は生まれていないので、永享九年は永正九年の誤りであった
ろう。これらの記録によると山形城主を嗣いだ最上義定はまず谷地の白鳥氏を幕下につけ、兵を北進させて、延沢盆地に入り、永正九年(一五一二)四月升形肥
後守盛光を攻めんとした。